私が草鞋編みのアルバイトをしていた時にいた、くまさんという
熟練老婆とは今でも年に二度三度文通をする仲であると言っても人はなかなか信用してくれない。
私が当時まだ高校に入りたての一年生、蘭学のボタンもまだハゲてはおらず金ピカのまま光り輝いて将来は弁護士になりたいという夢を捨てきれずにいた、今考えると赤面激昂、でそのくせ無学で犬のことをまだ猫の仲間だと思ってもいた。血気盛んだった、学校にはいつもブレザーを着ていっては、君は誰だ?学校の時間じゃないのか、とハチマキを巻いたラーメンを作っているおじさんにも言われたが、そんな時はいつも俺の鴛Gが口代わりだった。そんな日の夜は日が暮れるまで猫とじゃれては川で溺れてナキベソをかいていたものだ。
その日も、私はいつものように、チャーハンに頭を突っ込まれ、膝を擦りむいて、猫に顔を引っかかれ、川で水を飲もうとして沈みかけていた。近くにいた大人が幸いにも私を引きずり上げてくれて、お気に入りのT-syatuは濡れずに済んだが察しの通り、ジャガーの通学シューズはもうビタビタだった。まだ履ける。頑張れば4年は履けたんじゃないかな。5年、途中履かない期間を設けたら13年も夢ではなかった。15年。19年までいけないこともない。足が縮まなければ100年も履ける気がした。実質は4年は履けた。3年。3年ではお釣りがこよう。4年。妥当は4年だ。言い方を変えると48ヶ月。変えなければ4年はいけたと思う。ヶ月で言うと、精確には47ヶ月くらいの気がしないでもない。しかし、大まかに見ると4年。大学一年まで履いていた。いや、途中でのモデルに対するマンネリズミによって早めに靴を脱ぐ可能性がないでもないが、大学一年までは履けていた。と言ってまず間違いがないであろう。
そんなビタビタのジャガーを持ちへたり座る私の肩を。コツコツと叩くものがあろうとは、その場にへたり座る以前の私は知る由もなかった。
しかし、肩は叩かれた。
振り向く。
一瞬の時間が連続で続く。
そこにいた人物こそ、くまさんに他ならなかったのだ。
posted by 浜岡七十八郎 at 05:34| クアラルンプール ☁|
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